2008年11月

日本から伝え聞く話によると、日本では「オランダに倣え」と言われている政策がいくつかある。

  • ・ワークシェアリングなどの労働制度
  • ・移民政策と外国人参政権
  • ・大麻の合法化などを含む薬物政策

確かに、今の日本は特に若者が雇用に問題を抱え、今後の成長を見越すと労働力の見通しは悪い。オランダではワークシェアリングにより広く雇用が維持され、手厚い保険制度でゆっくり生きることも出来る。オランダ人がオランダで死ぬまで残業させられるようなことは滅多にない。そういった社会制度を維持する上でその開放的な国民性は非常に重要な特性であり、自らユニークな政策を行うことで先進的な地位を築いている。まさに不況に苦しむ日本が師と仰ぐべき、全くいいことづくめの国ではないか?と問いたくなる。

しかし、タイトルにもあるとおりL.starはあえて言う、真似てはいけない。

なぜか?シンプルに言うと、これらのデメリットの多くが別の要因によって隠されているからだ。その要因とは「好況」である。オランダは未曾有の好景気にあった。これらの「独創的な施策」のデメリットを覆い隠し、メリットを強化してあまりある好景気だったのだ。

L.starがオランダにやってきたのは去年だが、思ったのは「オランダ人は質素と言う。でもその割に贅沢だし、ずいぶん羽振りが良いな」と言うことだ。頻繁なバカンス。少ない労働時間。そしておよそ贅沢な行動(とはいえ、やはり本質はケチであるが)に似つかわしくない安い給料。スペインやベルギーで買いあさられているという別荘たちや、そこかしこにある新興住宅地。そういうファクターが聞こえてきて余計混乱したものだ。そのうわっついた違和感は暫くして、オランダの不動産事情の全貌が聞こえてきて納得した。当時のオランダ経済は「バブル」そのものなのだ。

そして、暫くしてサブプライムが見えてきたのと前後して、売り物件があきらかに増えだした。最近では特に売りの中でも競売にかけられる物件が増えているという。何のことはない、「金持ち父さん」が推奨するような、家を買ってはそれを元手にローンを組むような連中が多かったということだ。今オランダではバブルが崩壊している。今までの手厚い福祉保障はこれからも受けられるのか?というのは分からないが、逆に言うとバブルだから劣悪な給与環境でも今まで支えられたということではないのか。

他の政策にも目を向けよう。移民政策についてはオランダは日本に負けず劣らず問題を抱えている。主な問題相手はイスラム系の出稼ぎの人たちだ。日本よりずっと開明的な国であるからそういうのも受け入れてきたのだ。しかし、日本で在日朝鮮人と日本人が抱えるような問題がオランダでも解決できていないように見える。民族的な微妙な面があるので、あえて詳細は書かないことにするが、この種の問題は今でもくすぶっている。そして、好況なうちはいいが、不況になって縮小していく中で、日本と同じように大問題になるだろう。

薬物政策についてはもはやまともに日本で理解されているかどうかすら怪しい。L.starも聞きかじった程度にしか知らないが、そもそもオランダは大麻が合法ですらない。パーキングエリアで金を払っておけば駐車禁止にならないように、特定の行為が非刑罰化されているだけである。制限は非常に厳しい。コーヒーショップは存在だけでも迷惑がられることがしばしばである。そして薬物政策が隣国との整合性がないため、国境付近のショップがあるエリアは外交問題にまで発展しかねないことがある。

そもそも、日本に大麻インフラを導入するに当たってやるべきことはあまりにも多すぎる。政策だけでも取り締まりや教育面といった部分で大きな変更を迫られるだけではない。その生産から流通までの一貫した統制が必要になる。生育の簡単な大麻は非常に簡単にヤミ流通し、問題のある組織の資金源になるだろう。オランダはこれらの問題を何一つ完全には解決できていない。

しかし誤解の無いように言うと、それでも挑戦するのがオランダという先進的国家の良いところであるのだ。日本には同じように世界の先頭に立つ覚悟があるのか?あるというのなら、こんなつまらないものではなく、今世界がまさに目にしている金融問題とか、そういうところにその勇気は使われるべきじゃないか。

まあ色々書いてきたが、そういうわけでL.starがオランダを真似るなと言うのは、オランダの政策がよく見えるのは好景気が強く影響しており、本当の問題が見えるのは不況が始まるこれからだから、ということなのだ。

好景気が制度の欠点を覆い隠してよく見えた例は、日本人ならよく知っている年功序列制度がそうだ。あのバブルの時、欧米企業はこぞって日本の年功序列制度から何かを倣おうとしたのではなかったか。年功序列制度の問題点は、バブル崩壊があっさり証明してしまった。日本人はバブル崩壊にいろんなことを学んだと言うが、欧米人も間違いなく日本のバブル崩壊に色々学んでいるのだ。

ベルギーから無事戻って来ました。。とりあえず「SPAでSPA」というべたなことをしたいがためにSPAへ。

途中AubelのVal Dieu修道院へよって地元のビールを楽しみつつ(※車なのでL.starは買っただけ)

ところが、その後ぐらいからずっと考えられないほどの大雪。日曜は世界一小さい町として知られるDurbuyによって帰ろうとするとこれまた大雪で立ち往生。午後4時に出たというのに、途中迂回とか大渋滞とかで、這々の体で帰り着いたら午後11時。

疲れたので生産的な記事はまた後日。

復帰早々いきなりですが、ちょっとベルギーに旅行に行ってきます。日曜夜には戻れる予定。

Blog再開早々、Koshianの日記のエントリにいちゃもんを付けてみる。

http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20081118/1227020479

L.starは我流ながら速読屋である。いわゆる心内発音なし、一度のスキャンで1文字ではなく1語読める程度の、初級卒業者程度。これを小学生の時に身につけた。

今までの記録では、とあるスターウォーズ3部作(非映画)の日本語訳6冊を、4時間(東京->新大阪->神戸市某所という電車内)で読み切ったことがある。あれは速いと言うより1日で数千円の娯楽を読み切ってしまう金の無駄だったといえる。それからアルスラーン戦記全巻(当時9巻までだったか)を文字通り一日ぶっつづけで読破した。一般人がどの程度のスピードで読むかという定量的感覚は持ち合わせていないが、L.starはまあ一般人よりとても速い。

しかし、なぜとても速いと断言できるかというと、答えは簡単である。何度もスピードだけを根拠に「ちゃんと読んでない」とクレームを付けられたからだ。

そもそも「ちゃんと」の定義も怪しいし、単なるいちゃもんとしか言いようがない。しかも、速読がいかに問題がないかを説明しても、納得する気配すらない。彼/彼女らにとって、心内発音による500文字/分というのは神聖にして侵すべからざる大日本帝国憲法における天皇のようなものであり、それ以上のスピードは邪教徒なのだろう、というのを子供心に学んだ。ひどい話である。

L.starは初級しかできないので「あらゆる速読」を肯定するつもりではないが、いわゆる左脳型と呼ばれる初級速読が決して理解を薄めるものではないと言うことを簡単に説明しておきたい。

そもそも、一般人は速読を「全体のスピードをアップして高速に読み抜ける」、つまりビデオにおける倍速再生のようなものだと理解していると思われる節がある。これは完全に間違いだ。なんとなれば、文学における1ページは、例えば1分という時間とは全くリンクしていない。場合によっては単なる情景描写であったりする。その場合では、要はそのシーンが浮かぶという理解だけで事足りるのだ。このような場合は十分高速化が可能と言えないだろうか?

速読をアナロジーとして理解するのであれば、倍速再生よりむしろアルゴリズムの最適化である。つまり発音を止めたり単語レベルで読み書きすることにより、視覚->聴覚->脳内理解という3層を、視覚->脳内理解の2層に変換するのである。ここには、一切早送りは生じていない。ただ無駄なレイヤがあるぶん、普通の方法が遅いだけなのだ。もちろん、必要があると思えば遅くすることも可能だし、心内発音をしてもいい。この切り替えは慣れれば難しくなく、別に全部速読にする必要はさらさらない。

まあ、無論読むスピードを脳の理解力以上に上げてしまうと、結果として読みこぼしなどが発生する。これは訓練によって解決できる部分ではあるが、いわゆる左脳的速読の根本ではない。

ちなみに、L.starがなんとなく理解している限りでは、右脳型速読と言われるキチガイじみたスピードを発揮するやつは、脳内をマルチスレッドにすると理解している。読み込みスレッドで脳内にイメージを展開保存しつつ、理解スレッドでそれを「読む」のだ。脳内はロック競合をしないように出来ると思われるので、この方法は格段の高速化を実現できるだろうと確かに思う。でも、何ページも脳内にキャッシングするようなのは凡人には不可能だから、相当な訓練を積まないと無理かと思う。

あと、はやりの「フォトリーディング」というのはどうも聞く限りプログラマ必修ツールの一つ、目grepの読書応用版であるかと思われる。こちらは拾い読みには適しているが、また違う分野なのでは無かろうか。

というわけで、速読とはパラダイムシフトによる効率的な読書法である。これさえ理解できるなら「速読すると読書が面白くなくなる」とは思わないと思うのだが如何か。

一生涯技術者で居たい、と言う人は少なくない。そういう宣言をする人も結構いるのは知っている。それは個人の選択であるし、大変立派な志だし、貶めるつもりはかけらもない。しかしそれを理解した上で、L.starは逆に「一生涯技術者であり続けると考えるのは辞めよう」宣言をしようと思う。個人的な3つの理由をあげよう。


  • 宣言によって、地位にしがみつくのが目的になってしまう。




目的と手段をすり替えてしまうと言う点で、一番気をつけなければいけないのは「しがみつく」ことだろうと思う。自分は世界に貢献したいのか?世界を汚してさえも我が侭を貫きたいのか?あくまでそういうとき、自分は前者を選べる人間であって欲しいと考えている。「一生涯技術者やるんだ!」という意志は、そのとき大きな妨げになる。なにも「50で引退する」と宣言したい訳じゃない。引き際を間違えたくないだけなのだ。その上で一生技術者を出来たなら、これは大変幸運なことだったと思う。

そもそもこの業界においてはあまりにも流れが速く、自分の「正しい」と信じていることが流れとともに否定されることも増えている。こんな状況において、常に前線で尊敬される存在であることは大変に困難である。幸運にもそれができればいいと思っているが、そうでなくなったとき、自分に冷静な行動が取れるかどうかは、技術者であり続けるよりずっと大変で大切なことなのではないか。


  • 技術だけで生きていく器ではない。




世の中には大まかに2種類の人間が居ると思う。それは「狭く深く」か「広く浅く」かどちらか、と言う話だ。狭く深く攻めるのはもちろん大切だし私も好きなのだが、残念なことに私は「広く浅く」タイプに生まれついてしまったようだ。正直、学者肌の方々には勝てない。そもそも、いわゆる「ガチガチの理系人間」ですらないのだ。

ならどうするか?もちろん自分の土俵で勝負するしかないのだ。それには「技術者」という枠組みを離れて考えなければいけない。広い範囲で勝負するしかないのだ。そのためには技術は常に自分の一つの有力な武器であるのは忘れないでいながら、もっと別の武器も持たなければいけない。そして、そちらが有力な武器になるなら、技術を捨てる決心が出来るだけの視野の広さを持たないといけない。


  • 常に全体の利益を考えたい。




上記2つをふまえて言うと、私が技術者でありたい最大の目的は「技術によって世界に貢献し、世界と自分のWin-Win関係を築くこと」なのである。だから、自分が居なくなることが全体の利益になるかどうかも考えなければいけない。広い視野を持って世界のために働きたいのなら、その時々で一体自分が何をしているかなんて、実にちっぽけなことじゃないか。

まあ、こんな風に考えているのである。もちろんこういう考えを「意志薄弱」とか言う人もいるのだろう。でも、逆に問いたい。「意志があれば世界は良くなるのか?」と。私は自分に意志があるかなど問いたくない。そんなものはどうでもいい。問いたいのは「世界の役に立てるか」だけである。

ちなみに、非常に漠然と将来の技術者以外の道として思い浮かべているのはファンタジー作家だ。おじいさんが子供に語って聞かせるような物語調が素晴らしいDavid Eddings(1931生まれ)は、51歳の時に出世作Bergariadシリーズを上梓し始めている。

http://en.wikipedia.org/wiki/David_Eddings

なんだ、それに行き着くまでまだ15年以上もあるじゃないか。なかなかどうして、36で死ねるほど人生というのは退屈なものではないのだ。

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