復帰早々いきなりですが、ちょっとベルギーに旅行に行ってきます。日曜夜には戻れる予定。
速読をすると読書が楽しめないという誤解
Blog再開早々、Koshianの日記のエントリにいちゃもんを付けてみる。
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20081118/1227020479
L.starは我流ながら速読屋である。いわゆる心内発音なし、一度のスキャンで1文字ではなく1語読める程度の、初級卒業者程度。これを小学生の時に身につけた。
今までの記録では、とあるスターウォーズ3部作(非映画)の日本語訳6冊を、4時間(東京->新大阪->神戸市某所という電車内)で読み切ったことがある。あれは速いと言うより1日で数千円の娯楽を読み切ってしまう金の無駄だったといえる。それからアルスラーン戦記全巻(当時9巻までだったか)を文字通り一日ぶっつづけで読破した。一般人がどの程度のスピードで読むかという定量的感覚は持ち合わせていないが、L.starはまあ一般人よりとても速い。
しかし、なぜとても速いと断言できるかというと、答えは簡単である。何度もスピードだけを根拠に「ちゃんと読んでない」とクレームを付けられたからだ。
そもそも「ちゃんと」の定義も怪しいし、単なるいちゃもんとしか言いようがない。しかも、速読がいかに問題がないかを説明しても、納得する気配すらない。彼/彼女らにとって、心内発音による500文字/分というのは神聖にして侵すべからざる大日本帝国憲法における天皇のようなものであり、それ以上のスピードは邪教徒なのだろう、というのを子供心に学んだ。ひどい話である。
L.starは初級しかできないので「あらゆる速読」を肯定するつもりではないが、いわゆる左脳型と呼ばれる初級速読が決して理解を薄めるものではないと言うことを簡単に説明しておきたい。
そもそも、一般人は速読を「全体のスピードをアップして高速に読み抜ける」、つまりビデオにおける倍速再生のようなものだと理解していると思われる節がある。これは完全に間違いだ。なんとなれば、文学における1ページは、例えば1分という時間とは全くリンクしていない。場合によっては単なる情景描写であったりする。その場合では、要はそのシーンが浮かぶという理解だけで事足りるのだ。このような場合は十分高速化が可能と言えないだろうか?
速読をアナロジーとして理解するのであれば、倍速再生よりむしろアルゴリズムの最適化である。つまり発音を止めたり単語レベルで読み書きすることにより、視覚->聴覚->脳内理解という3層を、視覚->脳内理解の2層に変換するのである。ここには、一切早送りは生じていない。ただ無駄なレイヤがあるぶん、普通の方法が遅いだけなのだ。もちろん、必要があると思えば遅くすることも可能だし、心内発音をしてもいい。この切り替えは慣れれば難しくなく、別に全部速読にする必要はさらさらない。
まあ、無論読むスピードを脳の理解力以上に上げてしまうと、結果として読みこぼしなどが発生する。これは訓練によって解決できる部分ではあるが、いわゆる左脳的速読の根本ではない。
ちなみに、L.starがなんとなく理解している限りでは、右脳型速読と言われるキチガイじみたスピードを発揮するやつは、脳内をマルチスレッドにすると理解している。読み込みスレッドで脳内にイメージを展開保存しつつ、理解スレッドでそれを「読む」のだ。脳内はロック競合をしないように出来ると思われるので、この方法は格段の高速化を実現できるだろうと確かに思う。でも、何ページも脳内にキャッシングするようなのは凡人には不可能だから、相当な訓練を積まないと無理かと思う。
あと、はやりの「フォトリーディング」というのはどうも聞く限りプログラマ必修ツールの一つ、目grepの読書応用版であるかと思われる。こちらは拾い読みには適しているが、また違う分野なのでは無かろうか。
というわけで、速読とはパラダイムシフトによる効率的な読書法である。これさえ理解できるなら「速読すると読書が面白くなくなる」とは思わないと思うのだが如何か。
私が一生涯技術者を宣言しない3つの理由
宣言によって、地位にしがみつくのが目的になってしまう。
目的と手段をすり替えてしまうと言う点で、一番気をつけなければいけないのは「しがみつく」ことだろうと思う。自分は世界に貢献したいのか?世界を汚してさえも我が侭を貫きたいのか?あくまでそういうとき、自分は前者を選べる人間であって欲しいと考えている。「一生涯技術者やるんだ!」という意志は、そのとき大きな妨げになる。なにも「50で引退する」と宣言したい訳じゃない。引き際を間違えたくないだけなのだ。その上で一生技術者を出来たなら、これは大変幸運なことだったと思う。
そもそもこの業界においてはあまりにも流れが速く、自分の「正しい」と信じていることが流れとともに否定されることも増えている。こんな状況において、常に前線で尊敬される存在であることは大変に困難である。幸運にもそれができればいいと思っているが、そうでなくなったとき、自分に冷静な行動が取れるかどうかは、技術者であり続けるよりずっと大変で大切なことなのではないか。
技術だけで生きていく器ではない。
世の中には大まかに2種類の人間が居ると思う。それは「狭く深く」か「広く浅く」かどちらか、と言う話だ。狭く深く攻めるのはもちろん大切だし私も好きなのだが、残念なことに私は「広く浅く」タイプに生まれついてしまったようだ。正直、学者肌の方々には勝てない。そもそも、いわゆる「ガチガチの理系人間」ですらないのだ。
ならどうするか?もちろん自分の土俵で勝負するしかないのだ。それには「技術者」という枠組みを離れて考えなければいけない。広い範囲で勝負するしかないのだ。そのためには技術は常に自分の一つの有力な武器であるのは忘れないでいながら、もっと別の武器も持たなければいけない。そして、そちらが有力な武器になるなら、技術を捨てる決心が出来るだけの視野の広さを持たないといけない。
常に全体の利益を考えたい。
上記2つをふまえて言うと、私が技術者でありたい最大の目的は「技術によって世界に貢献し、世界と自分のWin-Win関係を築くこと」なのである。だから、自分が居なくなることが全体の利益になるかどうかも考えなければいけない。広い視野を持って世界のために働きたいのなら、その時々で一体自分が何をしているかなんて、実にちっぽけなことじゃないか。
まあ、こんな風に考えているのである。もちろんこういう考えを「意志薄弱」とか言う人もいるのだろう。でも、逆に問いたい。「意志があれば世界は良くなるのか?」と。私は自分に意志があるかなど問いたくない。そんなものはどうでもいい。問いたいのは「世界の役に立てるか」だけである。
ちなみに、非常に漠然と将来の技術者以外の道として思い浮かべているのはファンタジー作家だ。おじいさんが子供に語って聞かせるような物語調が素晴らしいDavid Eddings(1931生まれ)は、51歳の時に出世作Bergariadシリーズを上梓し始めている。
http://en.wikipedia.org/wiki/David_Eddings
なんだ、それに行き着くまでまだ15年以上もあるじゃないか。なかなかどうして、36で死ねるほど人生というのは退屈なものではないのだ。