最近は徴兵制のお話が流行りなようです。野党の「戦争法案」うんぬんの話が引き金なのですが、どちらかと言うとああいう強引な論理には分がないように思えます。
安保法制賛成派の多くは、徴兵の非合理性を主張しています。例えば

■徴兵されないか不安なみなさんへ。


戦闘も同じです。
志願をし、採用試験に合格し、何年も勉強して資格取ったり訓練やったりして、そしてさらに日々訓練を積んでいるプロにしかできないことです。
やる気のないド素人を戦場に連れてったら、なんの任務も遂行できません


陸自、空自、海自それぞれみても、全くそのとおりだと思います。日本は膨大な近代兵器を擁しており、それが使える人材でもなければ単なる穀潰し、いないほうがましです。
ただ、これは常に真の命題ではない、というのは肝に銘じておくべきです。歴史的には徴募兵中心のほうが強い時代、少数精鋭のほうが強い時代は何度も繰り返されています。
鉄器、騎兵、騎士、銃器うんぬん。現代は、塹壕戦などの「数の時代」が終わり、「質の時代」が長らく続いていますし、それが消える気配もありません。

ただもう一つ、徴兵が有効なケースがあります。「質の時代」に置いても、軍より民間人のほうが質が高い場合です。特に黎明期のテクノロジーにおいては、軍のような硬直化しやすい組織より、むしろ外部の方が熱心であったりもします。そんなテクノロジーがあるかと言われたら、無論あるのです。

インターネット。

昨今はサイバーテロが話題になっています。ネットはほぼ事実上インフラ化した中で、サイバー攻撃やそれに対する防御は喫緊の課題です。しかし、それに対応できる人材は極めて少ないのが実情です。サイバー防衛隊の設立はたかだか2年前、十分な人材とノウハウがたまっているかと言われると正直良くわからない部分があります。日本は北朝鮮からのサイバー攻撃に対抗できる? 対岸の火事ではない「ソニー事件」では、高々90人体制でスタートしたが備えが不十分だと指摘しています。

要するに何が言いたいかというと、サイバー戦争界隈なら「日々訓練を積んだプロ」が民間にも多数いる、という話です。L.starも相応にこの業界では研鑽を積んだ身ですから、彼らに「ド素人」呼ばわりされる言われもありません。こういう人材を調達すれば、一気にサイバー防衛隊を拡充することが出来ます!そしてこういった人材は通常の方法で雇うのは多忙だったり、高価だったり、海外に出てたり、「市ヶ谷の連中なんかとは二度と付き合わん」と言ってたりで難しかったりもするわけです。そこで赤紙を使えば、あら不思議!雇いたい放題です。

同様のことはシステム開発やデータ解析の分野にも言えるでしょう。ソフトウェアの重要性が高まる中、制御用の膨大なコードを書いたり、レーダーや衛星写真などの大量情報を処理する必要に迫られていることでしょう。こういった人材も、自衛隊の中だけで育成するのは大変難しいものです。しかし、赤紙を使えば簡単にデスマ拠点を作ることが出来ます!

いかがでしょう。むしろサイバー戦争のような最新事情こそ、むしろ徴兵制の必要性を示しているのではないでしょうか。





無論、これは野党の馬鹿徴兵騒ぎを「大量徴募は不合理だから徴兵はあり得ない」という安直に否定したことに対する、ささやかな思考実験的反証にすぎません。野党の言う「徴兵反対」を何ら肯定していません。徴兵対象が少なすぎるし、そもそもサイバー防衛隊の人は実際には戦地にはいかないのでは?と思います。
また実際に有効だからやると言い出したところで、別に無理に憲法解釈を捻じ曲げなくとも、会社収用したり、案件を継続的に出して実質抱え込んだり、回避策は多数あります。そもそも非人道的か?と言われると、しばしばブラックの温床と言われるIT業界とか全く報われなさそうな情報系ポスドクなどと比べると、徴兵されたほうがまだ人間的かも、とすら思います。
結論としては「徴兵は悪」というのと同じぐらい「徴兵は不合理」も思い込みに過ぎないんじゃ?というつまらない話です。





「本当の日本のリベラル」こそまず改憲をめざせ

ですが、BLOGOS側のエントリがスマッシュヒットして支持とコメントを多数いただきました。ありがとうございました。

コメントはいいもの、悪いもの、どうしようもないもの、いろいろあるんですが、その中で気になったのは「日本のリベラルは、リベラルあるいは革新なのに護憲だからおかしい」というのが多数あったことです。こういう話は前々から聞きますし、中には「安倍は改憲賛成だからリベラル、共産党こそ保守」などという人まで居ます。

「リベラルなのに護憲」、実は全くおかしくありません。なぜなら、憲法は手段であって目的ではないからです。革新が革新したいのは、国のありようです。非常に曖昧な言い方ではありますが、現実に国をどうなっているかを変えたいのがリベラルなのです。そのために法律を変える必要があるなら変えるし、実態が法に即していないなら厳密に施行させるようにします。

国のありようというと曖昧なので、労働時間を例に出しましょう。残業0社会を目指したい、というのは立派なリベラルとしての目標です。対して保守派は、経済成長や国益のためにはサビ残もいとわないようじゃダメだ、と主張するでしょう。実際そのように若者を批判して炎上する経営者は何人も居ます。

そこでリベラル政党はどうするの?と言いますと、法整備をし、それを順守させるわけです。では現状はと六法全書を紐解いてみれば、ここで憲法に相当する労働三法は、かなり明確に残業させない方向の法律であることがわかります。であれば、現状を許さず、既存の法を厳格に運用するように仕向けるのが一番ということになります。

こうたどれば答えは明白だろうと思います。KAROSHIの国として名高い日本を革新すべく残業をなくすためには、なんと現状の法律を変えないのが一番良いのです。

大切なのは、現状の法律がどれだけ主張を実現するのに役立つかということです。実際、日本国憲法は、現状かなりリベラルな憲法といえますから、むしろ護憲で当然なのです。

このように考えると、「改憲こそリベラル」みたいどうでもよい形式的定義にこだわった言い方は、政治のなんたるかが分かっていない事がわかっていただけると思います。まあ、ジョークのつもりなのかもしれません。いや、きっとジョークに違いありませんね!

 

ん?そこで「お前リベラルこそ改憲すべきってさっき言ってたよね?」という事に気づいた人はなかなか勘の良い人です。L.starがリベラルとして改憲を主張した背景は、護憲派とは若干違う論理です。

例えば現憲法のリベラル度を10、現状を5,保守が目指す国家像を0、というように表してみます。先ほど示したとおり、護憲派の人は「今の憲法は10なのだからこのままいけば現状も10に近づく」と考えます。

実はL.starはそうは思っていません。5から10に近づくには段階が必要であり、いきなり10にしてもできることと出来ないことがあるでしょう。むしろ戦後70年なのに未だに5なのがその問題を示している、と考えます。なのでそこはむしろ妥協して7か8の新憲法を作り、6か7を中期的に目指すのが重要です。国のありようを変えるのは憲法を変えるよりずっと難しい話です。長期戦で構えないといけません。

ちなみに長期戦と言いつつ、96条改憲による軟性憲法化も賛成です。それはPDCAサイクルをきっちり回していくためで、そのためには法律も結果を計測しつつ情勢と相談しながら、変えるべきところがあれば積極的に変えていくべきと思うからです。今の時代、まずは早さが重要です。

 

そんなわけでつらつらと護憲の話をかいてしまいました。もう一度言いますが、改憲は手段であって目的ではありません。そして、主義主張の本質を決めるのは目的なのです。

 

 

 

「日本のリベラル」をリベラルと呼ぶのをやめにしませんか
『日本の保守』も保守と呼ぶのをやめませんか

という記事が流れてきました。しかし、個人的に思うに「リベラル」や「保守」が最近劣化したわけでもなんでもなく、もともとリベラルや保守に値しない勢力がそれらを自称していたにすぎません。どちらの側も自分たちの考え方の地位を実際の政治的スペクトラムに当てはめて絶対座標系で考えるということをせず、思い込みで語ることが多いので、都合よく「中道保守」「リベラル」みたいな言い方をするのです。「無知の知」という言葉がありますが、無知であることを知らないからなせる技だな、と感心せざるを得ません。

で、絶対的な指標で考えると自称リベラルや自称保守は要するに「極左」と「極右」と分類すべきものですので、単純にそう呼称すべきでしょう。そう思って、最近では「日本のリベラル」に属する中でも9条護憲のような過激な主張をする人たちを「極左」と呼び、愛国お花畑民族主義を主張する人たちを「極右」と呼ぶようにしています。「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」などという団体が自民党リベラル派だと主張する人もいますが、ちょっとここまでくるともうなんと分類していいかわからなくなります。

実際のところ、欧州の極右などが苦しみつつも自分たちの主張を政策化するべく努力と妥協をやっているのに比べると、日本の極左も極右も「間違った権力者」の否定のみで成り立ち、「想像上の国家」を崇拝することでアイデンティティを維持しているだけ、というのは全く変わらんのです。

え?と思うかもしれません。極左は明瞭な反権力ではありますが、極右は権力志向ではないか?というのはわかりやすい疑問でしょう。しかし、極右の考える「間違った権力者」とは朝日新聞・日教組・中国・韓国なのです。また極左は日本を嫌いなのではないか、と思うかもしれませんが、これも間違いです。極左が愛するのは「憲法9条によって平和国家に生まれ変わった日本」なのであるからして、彼らは日本が大好きなのです。もちろんこんなものはリアリズム的観点から見ると空想上の産物にすぎませんが、極右の考える「愛国」も「愛国デマ」などという単語も出てくるぐらい、大体同じぐらい空想上の産物です。

このように、結局のところ極右も極左も同じ穴のムジナなのです。これは新しい話でもなんでもなく、近衛文麿あたりが戦前に似たようなことを言ってたと記憶しています。

極右と極左は政治的なまともな議論から外してしまうのが健全として、じゃあそれを除くと日本には何が残るのでしょうね?という話ですが、そこに日本の(自称ではない)リベラルと保守のポイントが有ります。

まず「保守」のほうですが、それを考えれば考えるほど日本の政治が現場主義、官僚主導政治であることに気付かされます。安倍政権の昨今の流れを見る限りも、基本的には官僚のやりやすいように解釈を変え、法を修正する、という考えであるように思われます。

その反対の考え、つまり「リベラル」とは、実は「立憲主義」ではないかと思うのです。要するにまずルールを定め、それに沿うように現場を制限していくやり方です。たしかに現場には不都合を強いる部分がありますが、現場に自由を与えすぎることでコントロール不能にする、という最悪のケースを避ける考えでもあります。

こう見ると、今の安保法制に関する国会での議論は、実に興味深い有用なものであるといえるかと思います。「現場の都合」を優先する与党案、「みんなのルールの厳守」を優先する野党の反発、というところです。

与党案を支持する人がしばしば「安倍政権がそんなことをするはずはない」という理由で反対派の疑念を退けるところなどは、典型的な好例であると言えます。憲法とは最悪の事態を想定して作られるものですので、時限立法でもない限り「安倍政権が優秀だから拡大解釈OK」などということは、立憲主義的に言ってはいけない話なのです。

しかしながらこの安保法制議論においては、リベラルを自負するL.starをもってしても安倍政権に賛成せざるを得ないと思わせる部分がおおく、リベラル政治家の情けなさが際立っています。法とはもちろん現場の暴走を縛るものでありますが、同時に現場に必要な権限は正しく与えるものであるべきです。単なる個別自衛権の拡張としか思えないわずかな緩和を集団的自衛権というレトリック以外目立った失敗を犯しておらず、現場に権限を与えようとしている保守に対し、リベラル側は重要な修正を加えられるに至っていません。現場が守れない法律は、どれだけ美しくてもそれは絵に書いた餅にすぎません。

つまるところ、日本人はトップダウンで法を作ることが下手すぎるのです。たぶんそれは人種的問題というより、階層の深い官僚社会が長らく続いていて、法学のような議論に不慣れという歴史的に経験不足という問題と思っていますが。コンプライアンスにしてもガバナンスにしても、日本はお手盛りが多い、と言いたくなる部分が多々あります。こんな惨状では、日本のリベラルは発展しようが無いでしょう。

日本のリベラルが今後発展していくためには、「トップダウンで現実的な制限を課すことで現場の行動を宣言範囲に収束させる」高度な法制度立案能力を持つことが不可欠なのではないか、と考えています。民主党が政権初期に掲げた政治主導というスローガンは、考え方そのものはリベラルとして正しかったと思っています。であるからこそ、立案能力に乏しかった点を反省し、実現できるべく能力を磨くべきです。

そんな中で一番重要なのは、トップダウンで制限を施すという根幹となる憲法改正です。これは、官僚制を是とする保守に絶対させてはいけない作業だというのは、自民党案を見て確信しました。憲法は、リベラルの思想で作られなければいけません。さもなくば、日本は官僚制国家からいつまでも脱却できません。ですので、むしろリベラルが先んじて、保守が妥協できるような案をまとめなければなりません。

というわけでつらつらとじゃあ日本のリベラルに必要な物は?というのを考えてみて、結局「改憲」というところに行き着いてしまいました。戦後70年、日本も新しくならねばなりません。リベラルもまた、日本国憲法にあぐらをかいて努力を怠った戦後型リベラルからの脱却が求められているのではないか、と思う次第です。

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