異議あり! 有給休暇

釣り針と言うより、あまりにもでかすぎて錨とでも言いたくなるが、しかし全くの善意で書かれていることは疑いない不思議な記事である。

なぜなら、「働かないのに給料がもらえる」ということと、それが「労働者の当然の権利」と言われていることに対して、率直に「ありえない」と思うからです。

善意が釣り記事に化ける最大の理由は、上の引用だけで全部言い表せる。この筆者は「期間契約」と「時給仕事」の区別が全く付いていない。

例えば年間52週完全週休2日有給計20日でいくら、という契約があったとすれば、それは年間260日の稼働日のうち、稼働率92.3%(=240/260)を維持しろ、というSLA付き契約ということである。ところがそれを「働かないのに給料がもらえる」と発想するなら、稼働率100%が前提なのである。

「稼働率100%なんて当たり前だろ」と思う人は、稼働率を保証することの難しさを全く知らない馬鹿だ。

高可用性システムをいくつもやった経験から言うと、稼働率をあげるには桁外れのコストがかかる。年間稼働率99%(=3日強のダウンタイム)を保証するのは難しくない。ところが99.9%(=年間8時間)にするには素人がその辺のマシンで、では全く無理。専用データセンターなりホットスワップ可能なRAID構成のハードディスク、即応のための体制や予備機など10倍近いコストがかかる。99.99%(年間1時間以下)には、HA構成のサーバ群が必須で、これが手間やら運用ノウハウがかかる上、ハードやソフトもべらぼうに高い。

人間よりはるかに連続稼働が簡単なコンピューターですらこれである。人間が稼働率100%を維持するというのがどれほど大変か。もちろん「偶然にも」稼働率100%を実践できることはある。しかしそれは所詮偶然に過ぎない。だからこそ余裕を持ってリソースを確保して行かなければ、不慮の自体に対処できないのだ。それをせずに何か起こるのを「稼働率が高くないから悪い」というのはずいぶん甘えた発言だ。

脇道にそれてしまったが、もちろん最初に書いたとおり、筆者はそういう「無能さ」を押しつけようとするのでは決してなく、全くの善意で書いているのだろうな、とは思う。それはつまり「権利」ではなく「感謝」であれ、という「自分に厳しく」ということだ。しかしそこに正しい説得力のある裏付けがないと、「会社に優しくあれ」というありもしない意図が見え隠れしてくる。

二十一世紀にふさわしい「頑張る」を考えよう…「若い人たちに時間を気にしないで働いてもらう」騒動の本当の意味

でも「頑張らなければ駄目だ」という話をしたが、実はこの記事にも割とネガティブなコメントがいっぱい付いた。それは先人の一言を「自分に厳しくあること」という読み方をしたか、「会社に優しくあること」という読み方をしたかによって大きく分かれたのだろう。特に若い人はこういう文面を「会社に優しく」と読みがちである。そう読まれると悲しいことに通じないエントリである。しかし、その壁はいったいどこにあるんだろうかと悩みつつ、その「会社に優しい」という解釈が新しいヒントになった。

何の言い訳も無しに自分に厳しくなれる人は本当に少ない。ごく少数が「好きだから」自分に厳しくなれる。またそれよりはましだが、まっとうな目的のために自分に厳しくなれる人も多くはない。こういう人はだいたい最高の人材になる。

しかし、多数の人たちをそういう風に条件付けする方法は見つかっていない。大半の人は何かを言い訳にする。古い「自分に厳しく」ある人は、多くの人が「会社」とか「社会」を言い訳にして自分を厳しく律してきた。それは結果として会社を甘やかしただろうが、それ以上に自分に厳しくあることにはメリットがあった。

しかし、そのバランスはだいぶん崩れた。例えば「会社に優しいこと」を「自分に厳しいこと」と勘違いする人が多数出てきた。ゲーム会社勤務の友人(当然名前は秘す)は上司が「だって若い人たちはゲームさえ作れればよくて、お金なんか欲しくないでしょ?」と言い放ったのを聞いたそうだ。もちろんお金が欲しくない人などまずいないわけで、これほど甘ったれた発言はない。できれば作り話だと信じたいが、残念なことに、実際にこれに類する甘い発言はいくらも聞いたことがあるので、良くある「会社に優しい発言」の一つだろう。

このような「会社を言い訳に自分に厳しくする」を巧妙に利用して搾取しようとするのはいつの世にもいる。例えばブラック企業などはその典型だろう。思えばそれは「現実と認識のギャップを利用して儲ける」非常に巧妙な手法と言える。中年以降の層がそのギャップにはまった反面若者が「騙されない」のは、植え付けられ方の差だろうか。そういう若者を見るにつけ、ロストジェネレーション世代は確かに失ったものがあったのだ、と思う。「頑張るべき理由」を。

 

そういう意味で、二十一世紀の「頑張る」とは「会社を言い訳にして頑張る」というやり方、言い換えれば「社畜モデル」からの脱却といえるだろう。それは短期的には目標の多様化と搾取の排除であるし、中期的には新しい努力モデルの構築であり、長期的には我々の心のありようをどう形作るか、である。「社畜モデル」は未だ有効だが、もはや中枢ではなくなったのだ。

その視点で見ると、昨今の「ノマド」vs「アンチノマド」には、その「会社モデル」に論拠して頑張るやり方と、そうでないやり方の対立、という見方が出来る。

ブラック企業 vs ハイテクノマド:最後まで立っていたほうの勝ち

では「騎兵」vs「歩兵」という文脈からこれを読み解いたが、「努力モデル」という観点から見れば「歩兵」とは「歩兵の一員として頑張る」という確立したものがある。一方の「騎兵」には今のところ確固たる努力モデルが存在していない。たしかに何人も「ノマド」が出てきているが、彼らは自発的に努力が出来る限られた一部の優秀な人材だ。それがもっと普遍化するにはもっと時間が必要だろう。

 

その新しい努力モデルの確立のために、現在沢山の試行錯誤がある。例えば英語やグローバル化などを軸に国際社会にそれを求めるとか、ネットなどを活用した新しいコミュニケーションに求めるとか、貨幣経済以外にそれを求めてみるとか。L.starがツイッターで仲良くしている連中は、だいたいそういう試行錯誤の大好きな連中だ。確かに荒唐無稽や無意味なものがあったりするのも事実だ。が、それでも試行錯誤を続ける彼らには本当に「未来は明るい」と感じさせられる。

確かに我々ロスジェネ世代は本当に大切なものを失ったな、と思うことはよくある。でもそういうチャレンジの中に、我々はもっと大切なものを見つけられるのだろうな、という期待、そんな時代を生きていけることは本当に素晴らしいことだ。

ちょっと旧聞になるが、うちのTL周りでノマドに関する話がわき上がっていたようだ。というかこの間Koshianが

■バカほど相手の意図を無視したがる

で怒っていて初めて気付いたのだが。それを読みつつ何となく思うことがあって書いたツイートは

ノマド曰く「ノマドとは」

にまとめた。

ノマド、ここでは元々の定義の遊牧民ではなく、最近のライフスタイルを定義するために借用しているのだが、これはべつに今から始まった話ではなくて、昔からある対立概念、つまりサラリーマンvs脱サラ、スーツvsギーク、大企業社員vsフリーランスといったモノの焼き直しである。

規模か精鋭か

そこでは、大まかに2つの概念があって相反している。

1つ目は、「多数が団結することでスケールメリットにより成果を出すのが最良である。故に個人が多少なりとも不便であっても、全体としての収支のために足並みをそろえて協力するのが一番」というやりかただ。スケールメリットは、どの時代においても常に強力な武器であるが、同時に大多数が協調動作するのは常に困難だ、という欠点がつきまとう。大企業などははっきりこのモデルなのだが、ここではいつもの比喩になぞらえ「歩兵型」と呼ぶ。

もう一つは、「少数が強みを生かすことによる精鋭型が最良である。故に協力関係とかは重視せず、個々人が最大限のパフォーマンスを出すことに集中すべき」というやりかたである。このやり方では、確かにスケーリングすることは難しい。しかし、個人の能力の技術によるブーストが大きくなれば、スケーリングのような阻害要因もなく強力な威力を発揮する。こちらは「騎兵型」と呼ぶ。

これはつまり以前から例えば

日本版シリコンバレーが成功しないたった一つの致命的な問題

TPP開国だの鎖国だの言う前に、目の前の敵が誰かを知るべし

とかで考察した、L.starが「歩兵vs騎兵」と呼ぶ概念である。ちなみに歴史的に見て中間解にあたるものは安定して存在しない。というのも、「安価で誰にでも使える技術」が支配的になれば前者が、「高価・稀少・訓練の困難さなどで少数にならざるを得ない技術」が支配的になれば後者になる。要素的に互いに独立しているのであまり拮抗もしない。

ただ、個々の技術的に見れば安定しないとはいえ、総合的に見ると組み合わせはある。例えばGoogleは人材面においては現代の典型的「騎兵型」ビジネスモデルだが、使うサーバーは徹底的にコモディティ化されており、完璧な「「歩兵型」である。

ノマドと、それに反感を持つ人の根底にあるもの

これを踏まえて@elm200氏の

パブリック・マン宣言

を読むと、何のことはない典型的な「騎兵型」の行動戦略を、「インターネット」という武器とともに使うということを語っているに過ぎないことが分かるだろう。成功するかどうかはまあ何とも言えない。相変わらずelm200さんらしい突っ走り方であるが、まあそういう賭をやるところからして彼らしいな、とは思う。

これが奇抜に見えるのは、それだけ日本の世の中が「歩兵型」中心に回っているからなのだ。

そもそもノマドは定員が少ない

とかKoshianが怒っているエントリたち

ノマドとかライフスタイルをテンプレで語ること自体の陳腐化と正社員とノマドの中間解 - Future Insight

ノマドワーキングを目的にすると不幸になるのでは? - GoTheDistance

を見るに、彼らは一貫して「歩兵型」を中心にして一元的世界を語っている。この視点は必ずしも間違っていないどころが、実際に日本は「歩兵型」が有利になるような諸制度が整備されているので、特殊論として今のところかなり正しい。だが、あくまで一面だけの正しさに立脚しているため、書いている人たちが思っているほど正しくもない。

正しくない理由は、日本をはじめとする現在の先進国がスケールメリットを広げていくことの困難に遭遇しているからだ。今日はタイムリーにもワタミの自殺者が労災認定を受けたことが話題になって、「日本ってブラック社会だよな」という印象を受けるエントリにあふれた。ラカンさんもこんなのを書いてる。

『ブラック企業と旧日本軍』(ワタミ化と東南アジア化)Add Star

彼が指摘する「同調圧力」は日本に「歩兵型」戦術を根付かせ、80年代までに大成功を収めた原動力になったのは事実である。しかし一方で、そのやり方が必ずしも引き続いて成功を収めているわけではない。今でも自動車業界のような成功例はあるものの、限界に達しているところも多い。

いや超過労働問題なんて一部の業界の問題でしょ、というが、実際に同僚でうつにやられたのもちょくちょく見るし、あまり他人事には見えない。実際デスマーチのようなプロジェクトも多々あるIT業界も決して他人事ではない。

・・・とおもってたらそれどころではないようだ。

平成22年度 脳・心臓疾患および精神障害などの労災補償状況まとめ

を見ると業界別に労災認定を受けた人数を見ることが出来るが、レストラン系もIT系もさほど上位ではないのが驚きである。もちろんこの数字だけでは単純に語れないが、他の業界に対して正直もうちょっとましな数字を想像していただけにショックだ。どこも大変なのだ。

このような状態が慢性化していることは、今の日本式「歩兵型」モデルに重大な欠陥があるか、そもそも限界点に達しているということを示唆しており、それゆえ持続可能性に難がある、と考えられる。持続できない「歩兵型」モデルを前提に物事を語ることにいったいどんな意味があるだろうか?

最後まで立っているのはどっちか

この2つの対立する「歩兵型」および「騎兵型」の今後の勝者がどちらになるか、ということはL.starはいつも興味を持って考えている。勝敗を決めるキーになる要素はさっきも言った「持続可能性」だ。どちらにしても、長期的に労働者の経験をうまく活用できるほうが勝ちである。使い捨ては短期的には得かも知れないが、それは長期的には首を絞めることになる。ドッグイヤーのこの時代、生き抜くのに必要なのは「変化の力」だが、ブラック企業のように力業で工数を増やして数字は上がるが、変化するための力はわいてこない。変化するためには、「ゆとり」を持つことが重要である。

どっちが勝つかという予想としては、今のところは、短期的にはやはりネットなどを武器にした特定層による「騎兵型」が優勢になると踏んでいる。それは、個人的な経験として、現状の企業にあまりゆとりがなく超過労働を繰り返させるなど持続可能性に難があるとこと、情報技術が当面一部の人に劇的な効用をもたらすこと、の2つを知っていることによる。

ただし、ノマド=騎兵型の正統後継ではないし、ブラック企業=典型的な歩兵型でもない。「ノマドとやらは、騎兵型として筋が悪い」という批判はなりたつ。実際、今のところノマドは、日本的大企業に対するアンチテーゼ以上の何かであることを証明できていない。市民権を得るためには、今後その能力を証明する必要がある。でなければ一部の個人の多様な実験結果の一つとして歴史に埋もれて消えるだろう。

 

ちなみに、たまに古代ローマとかモンゴル帝国のように「大量の個々人が最大限のパフォーマンスを出す」というキチガイ沙汰としかいいようのない例外が発生する。しかしこれは本当に例外である。ただ、先ほどあげたGoogleのようなグローバル企業はその「例外」としての重装騎兵団、つまり現代のモンゴル帝国じゃないかと思えてならないのだ。

恐るべきグローバル社会。

最近もてあます土日は美術館に出向いたりしている。日本ではあまり行かなかったが、ヨーロッパに来てから旅行ついでに行く機会が増えた。良くできた美術館に行くのは楽しいもので、そこには「作品」という芸術があり、そしてそれ以上のものがある。それは巧妙な配置だ。

巧妙に配置された作品群は、単なる作品の枠を越え、そこに流れる例えば歴史の流れであるとか、作品が成立した時代の持つバックグラウンドであるとか、作者の感情や意図を肌で感じさせてくれる。もちろんそれらは机上で学べるものだろうが、やはり感じるのはまた違う。

個人的に一番感心したのはオランダにあるクレーラー・ミュラー美術館で、あそこは写実主義が唐突に印象派に移行する、素人には全く理解できない流れを巧妙に見せてくれる。それは偉大な芸術家の単独の作品だけでは決して分からない、編集という隠れたいぶし銀の仕事である。

 

編集と言えば、ネット界隈でも2つの編集芸術が流行っている。2chまとめサイトとTogetter。

最近とくに2chまとめ系は偏向で嫌われ(アフィによる金儲けも言われるがそっちはとりあえず置いておく)叩かれることも多い。しかし、そういう意見を見ていていつも馬鹿馬鹿しいと思う。編集とはそれ自体が主体を持った芸術表現であり、芸術表現とはすべからく偏向しているのだから。そういえばマスコミはもっと偏向報道しろなんてのも書いたが。

まあたしかに管理人自体が「これは単なる編集ですから意見ではありません」と言い訳しているのは実際見苦しい。彼らが有名管理人として認められているのは、その編集の腕を世に認められているからであり、そのテクニックの本質を知らないはずがない。いや本当に理解していないのかも知れないが、だとすれば驚くべき純粋無垢さである。まあそれを言うと「偏向だ!」と叫ぶ人たちの純粋さも驚くべきだが。

そうやって純粋であるふりを装うのは本当は良いことではない。そういう感情はだいたい善悪二元論に偏り、他人に悪のレッテルを貼り結論を強要する。ところが、現実の落としどころはだいたいにして二元論ではなく、泥臭い合意形成の結果である。それをうまくやるのはむしろ純粋な善人ではなく、複雑な偽悪主義者である。実際善人はつきあってつまらないが、偽悪趣味は現実的で面白いのが多い。

 

いずれにしても、様々な表現形態が増えることは、個人的にはとても良いことだと思っている。もちろんそれによって粗悪な表現が増えたことも確かだ。しかし底辺層はフィルタリングすれば良い話である。TwitterのRT数にしろはてブにしろ、そういうメカニズムを利用すれば、変なのは全部ではないがそれなりに排除できるわけだし。最近はcrowsnestが気に入っている。間違っているが人気、というものはそれはそれでネタとしてありがたいものでもあるし。

あいつは気にいらんというまえに、気に要らない意見の存在を認める、という多様性も良いものだと考えてみませんか。

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