『やってみせ、いって聞かせて、させてみて、
褒めてやらねば人は動かじ』

- 山本五十六

続・「エスパー魔美 - くたばれ評論家」

続々・「エスパー魔美 - くたばれ評論家」

ずいぶん昔のエントリである

くたばれ一方的な批判者 – ネットだけの問題じゃない

で言及したエントリと最新作の

知識を詰め込んでも心は鍛えられない

に反論をいただいたのだが、内容は巨人の星か?とすら感じる「苦学を全うできないものには価値がない」的根性論でくらくらしてしまった。

ちなみにL.starは10000時間の法則なんてのを頻繁に使って継続する努力の必要性をずっと説いている点は、根性論の人たちと歩調を同じくしている。違うのはただただ我慢して物量だけこなすのではなく、メンタル面の充実も考えなければ、努力を継続させることは難しいと言っている点だ。規律の厳しいことでは有名だった大日本帝国海軍のトップですら、冒頭の句を残している。

最先端のスポーツの世界のメンタルトレーニングなどでも、もはや単純な根性論なんか否定され尽くされている。まあ「合理的なレベルをはるか超えて努力出来る一部の超人」以外の価値を0とするなら、そういった結論を導くことは可能だろう。実際彼の主張はそのような一部のコストやデメリットを故意に無視すると仮定すれば、割と簡単に同意できる内容になる。

そんな乱暴な仮定の成り立つ現実は見たことがない。ごく一部の天才だけが活躍するように見える芸術家の世界ですら、そこには切磋琢磨する芸術家仲間であるとか、インスピレーションを与えてくれる他分野の芸術家や、別方向の技量で支えてくれる専門家が居なければ成り立たない。

不思議なことに、根性論者から見るとこういうメンタル面の充実を訴えるような意見は相手を甘やかしていると見なされるんだよねぇ。継続できる努力の仕方を教えないで「ただ苦しめ」というだけでは脱落するのは当たり前。その不手際をかくして「脱落する奴に価値はない」などと責任を押しつけてるほうがよっぽど甘えているようにしか見えないが。

 

じゃあどうやって継続する努力、という話だが、ここで久しぶりに一冊の本を紹介してみようと思う。

リーナス・トーバルスはこのブログを読んでいる人の殆どには説明の必要はないだろうが、文句なしに20世紀末を代表するプログラマーの一人で、OSを一つあそこまで育て上げる努力は並大抵のものではなかっただろう。これだけの偉業、根性論者なら「これを作るのはいかにつらかったか」を語り出すのではないだろうか。プロジェクトXのように。しかしそれを “Just for fun”と言い切るところがいかにも欧州流、北欧流のやりかたであり、リーナスの本当の凄さだ。

 

何かを成し遂げるのは、たしかにつらいことだ。でもそれを「つらい」としてしまうことは間違っている。それは「つらい」だけでなく「楽しい」ものであり、「喜べる」ものだ。そしてその「楽しさ」や「達成した喜び」こそが、つらくてやりたくない努力を継続させる鍵なのだ。

だからさあ、嫌々でもやるとか、詰め込むとか言う話よりも、努力する楽しさとか、達成する喜びを教えてあげましょうよ。もちろんそういう勝利の味を知ってるでしょ?今の無気力な若者はそっちのほうを必要としているんですよ。彼らは努力しないんじゃないんです。努力する目的を失ったんです。それは努力の向こう側にある勝利の味を知らないからなんですよ。

実際社会派ブロガーのまねごとなんてやるのはつらいことも多いよ?理不尽な攻撃を受けたり、怪しげな粘着をされたり、全くの誤解にもとづいてひどい言葉を投げかけられたり。時には自分が書きたくないことまで書いてしまったり、知りたくない自分に気付いてしまうこともあるし。

それでもね、何かを成し遂げることを私は「楽しい」というし、心底楽しい。そして心底楽しむことを、世の中が必要としていると思う。

 

だからね、僕は社会派ブログを書くのは楽しいというよ。声を大にして。

グーグルで最も出世した日本人が吠えた!国籍、人種は無関係。真に戦えるグローバル人材の必要条件はこれだ!

という記事。もちろん村上氏はいろいろ良いことを言っていて非常に参考になるし事実なのだが、一点だけ「なんでこういう成功者はいつも同じ間違いを口にするのだろう」と思うことがある。

今の日本の大学生の多くは日本の教育制度の犠牲者である。人口減少で大学は全入時代を迎え、“極度の詰め込みによる受験戦争を勝ち抜くと言う”経験をしたものが昔に比べて極端に少なくなっている。知識が詰め込まれていないところに創造力も個性もない。芸術や音楽やスポーツだって知識の詰め込みが脳や肉体にないといいパフォーマンスはできないし、いいものかどうかの評価さえできない。

ここだ。

脱ゆとり?とんでもない!ゆとり教育はこれから大成功する ― 日本の教育に効率と多様性を

などでも論じたが、フォアグラのように単に知識を詰め込むだけの20世紀型詰め込み教育など、もはや何の価値もないと信じている。

もちろん彼の文章には正しいところもいくらもある。いつも10000時間の法則などを例にとって言うとおり、継続的な、しかも半端でない量の努力の必要性は間違いない。努力無いところに成功はない。しかしその努力の源が詰め込み教育だろうか。もし本当にそう信じているのなら、村上氏はたぶん何も分かってないのだろう。重要なのは詰め込まれる事実ではない。

強制的に詰め込むのはいろいろな弊害もある。それ自体が悪い体験になり得ると言うことだ。そうなるとせっかく詰め込んだ経験も「封印したい過去」になってしまい、全くの無駄になる。今の悩める若者を見ていると、フォアグラのように詰め込まれた知識を持ちながらも、詰め込みに対するトラウマに悩んでいるようにしか見えないのである。

教育は単に詰め込んで身につくものではない。詰め込むだけならフォアグラを作るときのように流し込むだけ。それで作れるのはせいぜい脂肪肝。それを咀嚼し、消化し、吸収していくことで初めて力になり、筋肉になる。その詰め込んだ知識を咀嚼する力こそ、自分の心の中からわき出る「やる気」である。これ無しにはどんな詰め込みも無駄である。

そう、本当に力のある人材とは、自らやる気を発揮できる人材である。以下の文章は、そういう人材の有り様をもっと端的に表している。

優秀なプログラマを見分ける方法

良い指標:

  • 技術への情熱
  • 趣味としてのプログラム
  • お勧めしたい技術的なテーマについて話したがる
  • 意義深い(そしてしばしばたくさんの)個人的な長い期間のプロジェクト
  • 独学で新技術を学ぶ
  • 様々な使い道において、どの技術が良いか意見してくる
  • 「正しい」と彼が信じてない技術で働くというアイデアをひどく嫌がる
  • 明らかな賢さ 様々な話題ですごい会話ができるような
  • 大学や仕事以前にプログラミングを始めていた
  • 履歴書レーダーにひっかからない隠れた「氷山」(大きな個人的なプロジェクト)がある
  • 関連性のない技術への幅広い知識(たぶん履歴書には載らない)

自ら率先して学び、実践し、成長する様が見事に表現されている。これはL.starが自らそうなることを望み、かつ自分に課している技術者像そのものである。実践できていると信じたいが。

 

村上氏がそういう「やる気のある人材」であったことは、彼の経歴その他から見ればほぼ疑いのない事実である。にもかかわらず彼のような名実ともに成功した人材の多くが「やる気」の存在を知覚できてないのは何故なのか、というのはいつも疑問に思う。

たぶ一つにんやる気というものが彼らには当たり前すぎるのだろう。しかし世の中の大半の人たちは「やる気」を持つのにすら四苦八苦する有様である。そのようなずれを認識せずになされるアドバイスは「たまたまやる気を持ち得た人材だけが成功する」というモデルにしかなりえない。そりゃ「努力しろ」という言葉が届くはずはない。

もう一つは「努力」と「苦労」を同一視したがる風潮だろうか。つらかった「苦労」の正当化のために「結果」を用いるとするなら、それはつまり苦労が無ければ努力はない、ということになる。昔koshianが

自分と同じ苦労をしなくていい人を見るとキレる人々

なんてのを書いていたが、まさにそういうことだろう。

 

努力することは、もちろん誰でも出来ることではあるが、必ずしも誰もが同じ方法で出来るものではない。

10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に?

でも書いたが、人それぞれ努力出来ない背景や環境や事情があり、それらが阻害要因として立ちふさがる。だからこそ、努力の成果を最大化するためには、そのような事情を勘案したより最適化された手法が必要となるのだ。単純な、画一化された詰め込みなどでは断じて無く。そもそもそんなに画一化した訓練を大量にこなすことが重要なら、セ・リーグは毎年広島東洋カープが優勝しているはずじゃないか。

最近「努力しないと駄目」というのはノマド批判の文脈で頻繁に使われるが、実際に大抵のノマド批判者よりノマドと呼ばれる人たちのほうが努力しているのは、個人的には何ら驚きではない。なぜならノマドにとって、ノマドであることとは自分に最適化された努力手法を実践する場だからだ。それが本当に適切か、万人に通用するかとかいうのは別の話だし議論の余地も大きいだろうが、少なくともその試みは賞賛されてしかるべきだろう、と思うのだが。

4月になって久しいが、いつも通りいろいろ忙しくてブログを書く暇がない間に新社会人向けのエントリが大量に出回っている中、若者に対してどういう生き様を提示すべきか、ということを考えていた。

若者はパワーがあるうちに正攻法で正面から頑張れ、というアドバイスももちろん出来る。例えば、どれだけ今の社会を憎んでいても、社畜的生き方をみっちり3年やるのは実は理にかなっていると思う。それはそこから学ぶべきものがあるから、というのも一つ。しかしもっと重要なのは敵を研究する機会を逃すな、ということだ。今の社会が嫌いであればあるほど、それを叩き潰したければ徹底的に研究すべきである。普通に人並みに生きたいなら、あくまで必要十分な程度に身につければ良いだけで、徹底的に研究する必要など無い。敵とするからこそ、隅々まで調べ尽くしてその弱点を徹底的に分析する必要がある。でなければ理不尽な社会の打倒などおぼつかない。

 

しかし、そういうマッチョな生き方が本当に正しい生き方か、というと、自分としてもやってみたが疑問が残る。というのもそれは「やってうまく行かないならもっとやれ」につながるからだ。これはもっとも高貴に見える、しかし愚かな玉砕精神の表れでしかない。うまく行かないのは理由がある。その分析無くしてさらにやっても単なる徒労にしかならない。

もちろん10000時間の法則があるから、頑張って努力すればそれなりのところにたどり着ける。問題はどこにたどり着くか、だ。もはや「努力すれば報われる」ような単純なモデルは滅多なことでは適用できない。「どっちの方向に努力するか」までが問われている時代なのだ。努力の多様化、といっても良いだろう。

 

努力の多様化がもたらす時代を生き抜くのに最適なやり方とは何だろう。ソフトウェア工学の世界では、もう10年以上前からアジャイルソフトウェア開発というプロセスが注目されている。これは完璧な計画を完璧に遂行することで完璧な結果を得るウォーターフォールモデルのアンチテーゼとして発展したものだ。ウォーターフォールモデルは確かにうまく行くときはうまく行く。しかし、さまざまな変化に対応しつつ完璧なプランに従うのはしばしば困難を伴う。そんなときは、あえて長期的に完璧なプランという最適解を捨て、つど変化を許容しつつほどほどの道をたどっていく、アジャイルモデルのほうが平均的に高い結果を出せるのだ。

思えば昭和的な終身雇用・マイホーム・年功序列のような重厚長大モデルはウォーターフォールモデル的である。短い時間でインクリメンタルに結果を出し、都度計画を修正しながら、今できる最善の手を打ち続けられる、アジャイル的モデルこそが今の若者に必要なモデルだ。長期的な展望がないのは、確かに不安に写るだろう。しかし長期的な展望から一歩外れると地獄が待っていたのだ。大切なのは長期的な理想郷という絵に描いた餅を捨て、短期的な地獄を避け続けることだ。

 

そこから現実的なアドバイスに落とし込むと

日本を出て行けなくても現状を打破したい若者に贈る6つのアドバイス

に書いたものと同じところに行き着く。会社に3年とは、経験的に得られたイテレーションの長さである。その中でつねに最善を尽くし、都度最善の結果を手に入れること。もちろん失敗もするだろう。いっぱいするかも知れない。そのときにはそのとき軌道修正すればいいのだ。

実はこのような生き方は、ノマド的なやりかたと相性がよい。オフィス・家のような固定リソースは、イテレーション内で最適な結果を得るためには過剰なことも多い。そういうリソースを極力さけていくことで、経費を最小限に抑えることが出来る。経費が少なければ損益分岐点までの道が近くなる。近くなればささやかな成功が近づく。これはシリコンバレーで流行っているリーン・スタートアップそのもののやりかたである。多様性の時代には、いちかばちかの大ばくちより、小さなところからこつこつと、いろんなところで挑戦し、小さな成功と小さな失敗を積み重ねることがむしろ最適な生き方だろう。

 

この間@HAL_Jに「じゃあ死ね。恐竜のように滅べ」という一言を名言として切り取られてしまったが、実際恐竜のように肥大してしまった組織というのを沢山見てきた。しかもそれが成長が望める大組織ならいいが、「成長するには小さすぎ、維持するには大きすぎる」という悲惨なケースをもいっぱい見てきた。

社員20人から先に進めない小規模ソフトハウス

なんかはまさにそういう救われない例の話である。今の日本で「正面から頑張れ」というのは、そういう穴にはまる危険をはらんでいる。これは避けねばならない未来だ。そのためにはまっすぐで闇雲な努力ではない、多様な努力が、多数の失敗が求められる、そんな生き方が求められている。

 

長々としてしまったが、一言で言うとこういうことだ。

若者よ、すばしっこく生きろ。

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