なんかいい加減ブログの更新もいい感じに滞っているが、忘れられないためにもたまにはリハビリも兼ねて書こう。元オランダ在住といえばやはりワークシェアリングの話かと思い、そこから発展して「ワークライフバランス」という単語に思いを馳せてみたい。

御存知の通り、オランダではワークシェアリングが盛んである。それゆえ、日本とオランダではワークライフバランスも大きく異なる。日本でワークライフバランスを叫ぶ人は、必ずといっていいほど「仕事をしてお金を儲けないと幸せもないんだから、ワークライフバランスは世迷言」という反論を受ける。バランスの話をしているのに世迷言とは若干へんてこな印象でもあるが、それだけ日本では「仕事優先」というバランスがまかり通っている。

ちなみにニューヨークももちろん日本・オランダと異なるバランスの持ち主なのだが、私的に見るにどちらかと言うと日本よりである。その点は、都市圏の広さ、経済影響力の大きさと関連があるのだろうか、と思わなくもない。働きずくめな状況は社会的なサポートが無ければまあ不可能といってよく、社会人が夜遅くまで残業し続けることと、日本のコンビニが24時間営業なのはもちろん密接に結びついている。ニューヨークで驚いたのはドラッグストア等が24時間営業で、最悪夜中まで勤務しても生きることに不都合はあまりない。いや、もちろん東京を基準に考えると大したことはないのだが、一部のナイトショップとバー以外営業なんてあり得ないアムステルダムとは雲泥の差である。だから自分の職場がどうであるか、というだけではなく、ニューヨークは長時間勤務が可能な社会インフラを持っている、と実感できる。さすが眠らない街である。

さてワークライフバランスという言葉に戻ろう。日本人にとって、長時間労働が事実上禁止されているに等しいヨーロッパの労働事情はまるで天国と思っているだろう。ところがここで、私の知人が聴きこんできた面白い会話を披露したい。
オランダ人男性「日本人は子育て全くしなくていいんだって?それってうらやましいな」
知人「いや、そのかわり夜十時までみっちり働くよ」
オランダ人男性「 んー、それは嫌だな」

これを聞いてどう思っただろうか。「オランダ人は軟弱だ」だろうか。まあそれは否定しがたい一面もある、その一方で「日本のサラリーマンは子育てを蔑ろにして仕事に打ち込んでいたのか」と考えた人はどれだけいるだろうか。最近は増えていると信じたいが。

 

ワークライフバランスとは、人はどれだけ仕事に打ち込んでいいか、という指標の話ではない。人はどれだけいい親であり、どれだけいい住人であり、どれだけいい会社人であらねばならないか、という指標の話である。仕事を最優先するということは、親として、住人としての責務をほっぽり出していい、という意味になってしまうということを自覚してしゃべっている人がどれだけいるのだろうか。

オランダにおけるワークライフバランスとは、仕事をほっぽり出していいという話では決してない。それは「親として、家族としての責務をある程度優先しなければならない」という指標である。そういう価値観であるから、仕事どっぷりで、家族をほったらかしにする人は評価されることはない。日本では必ずしもそうではないが。

このへんの話は、教育関連のところとも当然密接に関係している。教育における家族の位置づけが問題になっているが、それも責任を果たすためのリソースがあれば可能な話だろうが、仕事が最優先になってしまってはそもそもそんなリソースも十分ではない状況で、はたしてその義務を果たせるのだろうか。十分なリソースもなしに「できる。やれ。」と言うだけなら簡単で、どんな馬鹿にもできる。問題は実現することであり、現実にできていなくて問題になっているものを「できる」ということになんの意味があるのか。もちろん限られたリソースで仕事も家庭も全て両立できる優秀な人材はいっぱいいる。そうでないもっとたくさんの人はどうすればいいのか。

オランダにおけるワークシェアリングとは、結局のところ労働の分配というより「家庭人としての義務を果たすための時間リソースを確保する」という意味合いが一番強かったように私的には感じている。仕事を蔑ろにしているわけではないし、そうとは誰も言わなかった。ただ「優先順位として家庭のほうが重要だろ?」とは、同僚オランダ人が揃って口にしていたことだ。

 

もちろん、日本とオランダではあらゆる事情が異なるため、オランダ人が家族を優先するからといって日本がそれを真似るべきだということは決して無い。そこから学ぶべきところがあるとすれば学べばいいだけであって。ただ、今の若者がワークライフバランスを語るとき、それは「子供時代の親との関係が必ずしも幸せではなかった」という重要な経験がベースになっているとも感じる。家庭を放り出して休日も接待ゴルフに興じ、最後には熟年離婚してしまった家族なんかの話を聞くに、そう思わざるをえないし、実際ないがしろにされた子供からすると、同じ過ちを二度と繰り返したくはないだろう。だいたい「お金がないと困る」は「働けば幸せになる」と同値ではない。

それもこれも、「お金」という計測しやすいKey Performance Indicatorにすべてを任せてしまったのが究極の問題なのだろう。もちろんお金は重要なパラメーターであるが、本質的には「幸せ」とかそういったもっと重要でしかも計測が難しいパラメーターの従属変数でしかありえない。お金をそれほど稼がずに幸せになる自由、というのは日本には本当はあったはずだし、むしろ今でも存在しているはずなのだが。

 

まあつらつらと久々に駄文を垂れ流してしまったが、この問題を追っていくと最後の質問は「幸せって何だっけ」という最も根源的な部分に行き着く。「お金いっぱいもらって出世して幸せ」ルート以外にも、もっと多様な分岐と多様なハッピーエンドはあるはずであるのだが、それをはっきりを発掘するだけの文脈を我々はちゃんと持ち合わせていない。それが確立するまでは、ワークライフバランスという言葉も絵に描いた餅にしかならないのだろうな、と強く思う次第である。

なお、「ポン酢しょうゆのあるうちさ」と続けてしまったらそれはもうおっさんの証拠である(L.star含む)

というわけで(何が)注文していたGoogle Nexus 7がようやく届いた。ちょっと触って見たがKindle Fire対抗とでもいうべき$199からの価格など、安価な端末というイメージも強いが、なかなかの力作である。とりあえず個人的に簡単なレビューを書いておきたい。なお筆者は自称米国在住なので、今回のレビューも米国で行ったことになっていることに注意されたい。それゆえ将来日本版が出た時には色々異なる可能性もある。

良い



  • 使い減りしなさそうな外観。裏はゴムっぽい仕上げになっており丈夫そうであり、表もいつものゴリラガラスかなにかで、どこに持って行っても大丈夫な印象すら受ける。ちなみに表は真っ黒でいかにもiPadだが、最近のタブレットはだいたいそんな感じである。

  • Project Butter。まさに「バターのような滑らかさ」を実現したUIは文字通り「ぬるぬる」メモリ1GBであることも含めて、引っ掛かりはまったくない。即座に10本ぐらいアプリケーションをインストールしたが、極めてスムーズであった。PlayストアはAndroid携帯では重くてかったるいソフトの代表格だったのだが

  • 220dpiの美しい液晶。ぱっと見る限り発色も非常によく、文字も画像も美しく非常に楽しめる。

  • センサー等ほぼ完備。ジャイロ、GPS、Bluetooth、(日本ではなんの役にも立たない)NFCなどなど。特に3G無いのにGPSあり、というのが特筆モノ。

  • プリインストール書籍・雑誌・映画。たちあげて最初のタイミングで、でかでかと「マイライブラリ」ウィジェットが出てきていた。Nexusはもうちょっと素のAndroidかと思っていたが、その点は意外。なお付属映画はなんと去年のトランスフォーマー/ダークサイド・ムーン

  • 日本語は最初からOK。iWnn搭載。

  • $249という価格。ストレージ16GB(13GB空き) 除けば十分ローエンドという価格帯で、特に文句のない感じ。それでこの性能なんだから、本当に言うことがない。


悪い



  • 外部ストレージなし

  • フロントカメラなし。ただしタブレットにカメラ2つというのは、ほんとうに使いドコロがあるのかいつも不思議に思っているので問題なしともいえる。

  • Flash非搭載

  • そもそもクラウド想定。先ほどの映画も、容量を考えるとメモリに入っているとは思えない。

  • 熱い。ちょっと3Dゲームを楽しんでみたが、10分ぐらいで裏がほんのり熱くなった。Heatgateよりひどいんじゃないか。


ちなみに、持ちだしたわけでもないので、Google Nowとかはまだ全然理解できていない。この出来によっては凄い化けるのではないかと思っているが・・・同様に、バッテリーの持ちなども不明である。

しかしいや本当に「Kindle FireやNook Tabletを買う理由が一切なくなった」感じ。Tegra3だからすごい!というところはまだ味わっていないが、それでも全体のスムーズさは特筆モノである。

ただこれとThe New iPadを並べるとどうかというと、これだけ凄いAndroidが出てきてようやく「やっとこれからiPadと競争できるな」というレベルである。iPadが切り開いた10インチタブレット市場という革新に対して、Android陣営はようやくついていくのが精一杯というレベルだった。それだけ差が開いていたわけだが、これでやっと競争のスタートラインにたった、というところだろう。もちろんそれはAndroidとしては大進歩だが。

ただiPadと比べて違うところは「閲覧用端末」であることを全面に押し出しているところだろう。やはりクリエイティブなことをするためには、どうしても7インチは小さい。ちょっとした作業もこなせる10インチとは絶対に違うところで、Nexus 7が7インチなのは、そこをわざと外して勝負する、という姿勢の表れでもあるだろう。

もちろんここからAmazonもAppleも更に凄いマシンを出してくるのは分かりきっている、というか来月にも登場という噂があるわけで、7インチサイズはこれから大激戦が予想される。それは「巨大なアプリストアのシェア争奪戦用の端末」という形でではあるが、とにもかくにも7インチサイズの争いである。Nexus7は、それに乗り遅れなかったという点では十分評価できる。

日本の人がわざわざ買うべきかと聞かれると、ちょっと微妙かもしれない。この端末は前述のとおり「巨大なアプリストア」を背景に成り立っているので、今のところ日本向けコンテンツに乏しいこの状態では、やはり魅力が半減する。といっても十分レベルの高い端末だが、どうせなら8月が噂されるAmazonやAppleの端末を見てからでも遅くないのではなかろうか。ただやはりNexusは比較的素の端末なので、その点が好みな人にはちょうどいいかもしれない。

 

放っておいても良いしそう勧められているのだが、ようやくまとまった時間があったし、彼のような考えを持った人には言いたいことがいろいろあるのでついでに。

続々々・「エスパー魔美 - くたばれ評論家」 : メカAG

そもそも「努力量をこなすことが必要ではない」というのは合意事項だというのに、メカAG氏は私を「努力しないのを推奨している」かのようにとらえ、そのように非難しているのはいったい何故なのだろうか。このようなシチュエーションには既視感がある。例えば反原発関連トピックだ。このときは

科学を信じるか、心を満たすかという二律背反

信じただけでは救われないが、信じなければ救えない ― 人の内側と外側のバランスを考える

という2つのエントリを書いた。心の問題として。「心・技・体」というのはスポーツの世界ではよく聞く言葉だ。人の成長を促し、その能力の充実を図る上に置いて、この3つはどれも重要でありおろそかに出来ない。詰め込み教育の本質とは、すなわち「技」を詰め込むことだ。これはもちろん重要なことだ。では「心」は?「体」は?もちろん現代スポーツでは、メンタルトレーニングもフィジカルトレーニングも非常に重要だと見なされている。

L.starは「心」が、うちのブログ用語でいうと「自信」だが、今現在の日本のボトルネックになっていると強く考える根拠がいくつかある。増加しているうつ病とか、減らない極論の数々とか・・・こういう行動や現象の多くが「日本人が自信を失っているから」と考え、それをどう解消していくか、ということについて何度も書いている。そんな「心」がボトルネックとなっている状態で「技」の詰め込みなんかやってもうまく行くはずがない。

例えば英語教育の話をしてみよう。日本人の英語の「技」は実は大変高レベルだ。個人的な経験+オランダの英語教師から聞いた話を総合するに、ヨーロッパ人の平均的英語文法理解度と単語数は、日本人の平均よりはっきり言って低い。実際よく聞くと文法はめちゃくちゃだし、使う単語もそんなに多くない。それなのに日本人は英語をしゃべれない。理由が大きく2つあって、一つは技術的に聞き取りが苦手なこと。そしてもう一つは心の問題で、「英語をしゃべるのが怖い、物怖じする」というものだ。実際度胸のある人はどんどん片言英語を一方的にしゃべり、溶け込んでいく。

日本の詰め込み式英語教育は、文法や単語をシステマティックに教え込むのは確かに出来ている。しかしこの「英語をしゃべる度胸がない」問題を解決できていない。その解決は偶然か、現場の裁量レベル程度にしかできていない。L.starが詰め込み教育を批判するのはこの点、技ばかりに重点を置き、心を育てることをおろそかにしていることについてだ。

ヨーロッパの教育は、日本人から見ると確かに「技」の詰め込みについては甘いぐらいと感じなくもないが、一方で「心」の教育をおろそかにしていない。基本的に叱らず、自発性を尊び、論理を通じて行動することを教える。特にオルタナティブ教育なんかはその傾向が強い。自発的に打ち込めるものを探す、というのはモンテッソーリ教育で実践されているやり方である。それを真似ろと言うつもりはないが、そこから学ぶべきものはいくらでもあるはずなのだが。

そういった経験から、一見感情論やフィーリングに見えがちな「心」の問題は、実際には論理的に考察した上で、現状に対するボトルネック対策として言わせてもらっている。「罵声に耐える精神力」などというのは決して生得的なものや個人の資質ではなく、ある程度までは十分に鍛錬可能なものであり、優秀な教育者は今でも、たとえ詰め込み教育の実践者であっても可能な限り実践している。これを実践せず「つぶれた奴は素質がなかったからだ」などと言い訳するのは単に無能なだけ。

具体的にメンタルトレーニングを兼ねた訓練法とは「十分に努力すればかなりの確率で達成可能な目標を立て、それを実現させる」ことだ。これはSMARTという名前でよく知られていて、例えば以下のURLで紹介されている。

目標達成のための魔法の呪文は「S.M.A.R.T. 」

ここで重要なのは「目標は高すぎても低すぎてもいけない」ことだ。簡単に実現出来るようなことではいけないばかりか、実現が疑われるようなレベルであってもならない。あくまで「必死で頑張って自分の実力を最大限に発揮しても、100%実現出来るとは言い切れない」という絶妙のバランスで、しかも実行する本人がそれを納得できなければならない。そのバランスが当人から最大の努力を引き出し、結果から自信を得るのだ。またコーチングのような人材開発手法も、メンタル面をおろそかにせずに目標達成をさせる手法である。

 

ところで、極端な「技の詰め込み」への偏執的なこだわりというのも、心の鍛錬不足で説明できるものだろうと考えている。例えば育成ゲームを単純化したこんなのを考えてみよう。

  • 「鍛錬」ボタンを押すと能力が上がる。ただし疲労が増える。疲労が増えると鍛錬時に故障の可能性がある。故障したら退場。
  • 「休養」ボタンを押すと疲労が下がる。
  • 能力の高いほうが勝つ

このゲームに相手に勝つにはごく簡単で、単に「鍛錬」ボタンを相手より多く押せばいい。しかしそれには故障のリスクがあるため、最低限の「休養」も押す必要がある。しかし「休養」を押すと相手に鍛錬で負ける可能性が生じる。故に「休養」を押すのは怖い。故障しないぎりぎりを知っているという自信が無ければ、なかなか押せないだろう。自信が無いが故に、「鍛錬」を押し続けるのだ。

L.starの主張は上記ゲームで言うと「故障するまで鍛錬押すな。ちょっとは休憩も入れないと」である。ただ、それはメカAG氏には「故障が怖くて鍛錬が押せない」に見えるらしい。まあ故障したときの損害を0と仮定すれば、いくらでも押せるのは確かだが、当然故障退場したら現実には鍛錬につぎ込んだコストが全部無駄になるわけで、馬鹿にならない損失である。

また、他人に耐えられないほどの詰め込みを命令するというのは、ミルグラム実験を思い起こさせる。ここで権威者とは「詰め込めば詰め込むほど効果がある」と教える世間の空気である。「詰め込めば詰め込むほど強くなる」という空気が、「どんどん詰め込めば人はいくらでも有能になる」というような無茶な言論の源泉になっているのでは無かろうか。もちろん、他人の苦労なのだから好きなだけ言い放題だろう。

 

メカAG氏の言論を見て思うのは、L.starのことを「フィーリングだけで語る」「甘やかしている」などと批判するのと対照的に「机上の空論じゃね?」ということだ。メカAG氏は、実際に教育する/される場合に普通に考慮するはずの心の問題が一切抜け落ちており、ただただ厳しくて、脱落者が出ることによる損失コストが無視されているとしか言いようがなく、現実感を著しく欠く。こういった問題に対して一言で指摘するなら「おまえ本当に教育やったことあるの?」ということになるだろう。これならまだ既存の詰め込み教育の方がまだましだ。

また、オルタナティブ教育のような教育の多様性について知らないまでも、昨今のメンタルやフィジカル面で進歩した最新のトレーニング事情のような、教育方法の進化についてもあまりご存じではないようだ。そのような不勉強な状態で「私の言うことが最適だ」というのはなかなか度胸のある行為だ。そういう意味では心の問題はクリアしているようではあるが、残念ながら最新の教育論についての詰め込み教育が足りてないようだ。精進を期待したい。

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